コラム Back number 11-15  
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011 〜 最近想うこと 〜 R.Kさん
012 「ともだち」っていいもんだ M.S さん
013 懐かしい想い出とサイトウ・キネン・フェスティバル S.U さん
014 お店のシンボル〜キューピーの話〜 K.Sさん
015 鈍感力 (どんかんりょく) Y.O さん



011
011 〜 最近想うこと 〜 R.Kさん
 久しぶりに静かに正月を過ごした感じです。
 テレビのチャンネルを変えると、時代劇あり、お笑いあり、はたまた1970年代や1980年代の頃の映像が流れたり…。こうして昔の映像を見ていると、私も年をしたのでしょうか、懐かしく感じるようになりました。
 私が美容師に成り立ての頃は、サスーンカットの登場で、それまでのアップスタイルからカット&パーマが主流になってきた時代でした。
 そして美容室でもメイクの技術が必要とされ、毎日、毎日、ひたすら練習の明け暮れで、朝早くから夜遅くまでサロンと自分の部屋の往復。今思い返してもその頃どんなファッションが流行していたのか良く憶えていません。最近になり、若い女の子達のファッションを見ていると、私たちの母親が着ていたような感じもしますし、髪型も強いウェーヴをかけている姿が見受けられまたこれからアフロっぽい感じのパーマが流行るのかな、と思います。
 ただ、昔と違うのは美容師もある一部分だけをやっていればよい、という時代ではなく、幅広い知識や様々な能力が求められているのは確かな気がします。髪の毛や、肌の色を見て、その方の健康状態を察しながら、ストレス緩和のお手伝いをさせて頂くこともこれからは必要な技術の一つではないでしょうか。
 それにしても世の中のいろいろなことがあまりにもスピードアップして動いていくので、私の頭の中味がそれについて行けるのかが不安になるときもあります。たまには何もしないで一日、ボーッと過ごす時間も必要なのでは…と感じるこの頃です。


012
012 「ともだち」っていいもんだ M.S さん
 「おーい 佐々 飲みに行くぞぉ」 人生最悪に落ち込んでいるときに、飲み会の誘い。女房が急に亡くなり、半月も経たないくらいの誘いだったかな。まだ四十九日も過ぎないとき、俺の落ち込みように心配した連中からだった。
 普通なら不謹慎な、と思うところかもしれないが、誘いをかけてくれた連中の気持ちが、また父を心配していた子供たちの、「行ってきなよ」の一言も、ものすごくうれしかった。どうってことのない飲み会。前々日注文したという、北海道から昼に届いたタラバを、たらふく食べさせてくれ、たわいのない普段の騒々しさ。本当にしばし悲しさを忘れさせてくれた「ともだち」に感謝した。
 こんなことも有った。
 昔?協議会長(現連絡会長)をやったとき、県コンクールの順番が回ってきてしまった。やったことのある人は分かるだろう。大変だよな。お手伝いを頼まなくてはいけない。そんな時、「Mがやるなら手伝わなけりゃしょうがねえだろう。」って集まって貰えた。うれしいよね、そういうのって。単純だからそれで 「やらなくちゃ!」 って思っちゃう。このときはかなりプレッシャー感じていたから、東信のともだち達のおかげで助けられた。
 何か大きな事をやるときに、一人では出来ないことがたくさん有るけど、コンクールなんかその1つだよね。
仲間(ともだち)が多いほど助かるし、できる。    
組合でもう1つ。今回支部長になって、各事業部長誰にするか少し迷った。そして現上小支部執行部が在るけど、みんな快く(脅しじゃないよな(笑)お前たち)引き受けてもらえたことにも感謝。
 25年前、仕事を終えてバイクで帰る途中、赤信号で隣にバイクが止まった。聞けば旅行中だとの事。もう夜も遅いのに松本まで行って泊まるという。ホテルも決まってないというので、家に泊まらせることにし、翌朝仕事前に2人で山へひとっ走り。
 それ以来、遠距離ともだちが続いている。奴はバイクで更に海外にもともだちを増やし、俺にこれ見よがしにエアーメールで絵葉書を送ってくる。しかし奴のともだちに助けて貰ったことも何度かあるので、憎らしい絵葉書には我慢しておこう。
 バイクともだちでは、店を開店するときに手伝ってもらったともだちがいた。その時の代金はある時払いの催促なし。思えば29年払ってないことになる。3ヶ月に1度くらい仕事がてら東京から来るけど、催促なしどころか、尚、お土産持参の気遣いのあるともだちである。
 みんな見返りを期待しないで何か行動してくれるから“ともだち”なのである(とも言えないが)。見返りは「気持ち」。やってもらった事ばかり言ってきたけど、俺だって少しはしてきてる。…と思う。
 最近やけに“人のつながり”“友情”なんてものが気にかかる。年かなぁ。ニュースで悲惨な事件が報道される。親子の傷付け合い。恋人の、友達の……。なぜだろう?
俺の人生五十数年、かなり「なんとかなるさ」で生きてきた。そのなんとかの裏には、ともだちの助けが在ったことをすごく感じている。    末っ子で、甘えん坊、寂しがりや(この年でこういうことを言うとキモイ)なのに、それをあまり感じないで生きてこれたのは、ともだちの力に負うところが大きい。これからももっと 「ともだち」を増やして、人生楽しまなきゃ。
 最近やけに感じることを思ってみた。


013
013 懐かしい想い出とサイトウ・キネン・フェスティバル S.U さん
 その地は浅間山の北側にある集落。当時、冬の期間は長く厳しい寒さで私の知っている最低の気温はマイナス21度。雪も多く、深くて長靴をはき、その上から「ゲートル」というネルの様に厚地で包帯みたいな布を膝ぐらいまでぐるぐる巻き、雪の中を「こいで」(昔はそう言っていました。)学校へ通ったものです。吹雪や大雪になると早帰りや臨時休校になり、これがまたうれしかったんです。その雪の表面も1月の末頃からまるで氷のようになり、昔は車などありませんから、皆が歩いて出来た一本道はデコボコで歩きにくいので、林の中を近道して行きました。時々やわらかいところで「ボコッ!」と雪の中に落ちる事もありました。
 学校は分校で木造平屋建てが三棟。体育館がないので1・2・3年生の教室の間仕切りの戸板を外し、入学式や卒業式を、また、雪や雨の日の朝礼の時に使っていました。天気のよい日の朝礼はほとんど外でした。
 私が10年ぐらい住んでいた「大学村」というところは、多くの大学の先生(教授)方が避暑に訪れる別荘地でした。 そして“その別荘“は照月湖という小さな湖の近くにあり、夏になると沢山の学生さんが訪れ、そこここで楽器の音色が響き、オーケストラの練習でにぎやかでした。その別荘地での練習がいつの頃からか私たちの「分校」に移って来たのです。
 小学校の夏休み、その広くした教室を利用しての合宿…。中間登校日で学校へ行くとそれはそれは厳しい「特訓」、先生も熱心に指導されていた様子を子供心によく憶えています。この登校日にはちょっと楽しみがありました。
 それは合宿に参加されている学生さん達のお母様方が避暑を兼ね交代で食事を作りにいらしており、高学年登校日に「今日は大サービス、ライスカレーを食べてください。」とご馳走してくださるのです。
 お肉??なんて探しても入っていません。ジャガイモとニンジン、タマネギだけ。今のように市販のルウなど無い時代、カレー粉とメリケン粉で作られた「カレー」でしたが本当に美味しかった。懐かしいあの味、今は出せません。
 休み明け、始業式の日は合宿の仕上げにと私たちのために「演奏会」を開いてくださいました。先生が学生の前に立つといろいろな音がピタッ、と止まり、同時に先生がこちらに振り返りジロリ。ワイワイガヤガヤうるさかった私たち小学生もその気迫にシーンとなり、先生の白い棒が動くと演奏会の始まりです。
 先生はメガネを左胸のポケットに入れて時々その左胸を押さえながらの指揮姿が印象的でした。「あの白い棒は何だろう?お兄さんもお姉さんも良く見ているよ!」と不思議に思いながらも1曲終わるたびに小さい手のひらが痛くなるほど拍手をしました。曲名は憶えていませんが、田舎で暮らす小学生にとっては、オーケストラの生の音に触れることが出来る素晴らしい音楽体験で、学校行事の中で一番の「感動」だった様に思います。
 終わりに近づくと先生が「『ふるさと』を歌える人は歌いなさい。」と、みんなで合唱しました。続いて校歌も演奏して下さり、その演奏に合わせ全校で校歌を歌い、「また来て下さい。」と楽しかった夏と一緒にお別れです。
 あの頃、学校には、ピアノ・オルガン・アコーディオン・木琴くらいしかありませんでしたのでお兄さん、お姉さんの楽器が珍しく、また音がでるのがとても不思議に思えました。
 時々、指揮をしていらした先生が私達に優しく声をかけて下さいましたが、恥ずかしくて顔を赤くして返答するのがやっとでした。
そ の「先生」こそあの照月湖にあった「齋藤別荘」の主で桐朋学園オーケストラを率いるチェロ奏者であり指揮者、 桐朋学園の教授となられた齋藤秀雄先生だったのです。
 ●浅間山の北側にある避暑地「大学村」。この地にある小さな分校へ音大生のオーケストラが
   合宿に訪れるようになりました。 厳しい特訓の最終日、演奏会でタクトを振るのは
 ●そう、あの「サイトウ・キネン・フェスティバル」で有名な 「齋藤秀雄先生」 だったのです…。
 この合宿には今や世界的な指揮者として有名な小澤征爾さんも参加されていたと、後になってお母様の手記を読み知りましたが当時の私は知るはずもありませんでした。
 ご存じの方も多いと思いますが小澤征爾さんは桐朋学園で齋藤秀雄先生から指揮を学び、その後フランスに留学、24歳の時に第1回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位になり、その後も次々に素晴らしい成績を納め世界に「オザワ」の名を知らしめた方です。
 1984年恩師齋藤先生没後10年を偲んで、世界中で活躍中の門下生100名以上が集まり、「齋藤秀雄メモリアルコンサート」を東京と大阪で開催、このコンサートが「サイトウ・キネン・オーケストラ」として世界各地でツアーを開催、成功を納めました。1992年9月、第1回公演のプログラムで小澤征爾さんは総監督としてのご挨拶をこう記されています。「サイトウ・キネン・オーケストラは齋藤先生からお預かりした大事な宝です。齋藤先生が育てて下さったお陰で今の自分があることは言うまでもありません。先生がやろうとしたことを私たちなりのやり方で引き継ぐために日本に腰をすえて音楽祭を開くことにしました。それがこの『サイトウ・キネン・フェスティバル松本』です。」
 世界中で活躍する多くの門下生が、心を一つにして師を思い、松本に集うのは、幼い頃、私たちが垣間見た齋藤先生の厳しい指導に耐え、努力が実を結んだ事への感謝の気持ちによるのではないでしょうか。そんな「師を思う心」でこの素晴らしいフェスティバルが続いて来ているのだと思います。末永く感動を与え続けて欲しいと思います。私もきっといつの日か見に行きたいと思っていますが今は「夢」です。
 あの頃、私の通った分校はどうなっているのだろう、つい先日訪ねてみました。・・・・・ 
  懐かしい!50年ぶりです。・・・・・
 目の前に現れたのは、当時の「分校」とは全く違い二階建ての校舎に体育館。校名も町立小学校に変わっていました。まわりの木々も太く大きくなりすべてが立派に変身していました。
 帰り際、校門のところで昔を思い出しながら校歌を口ずさんでみました。気がつくと最後まで歌うことができ、自分でもちょっとビックリしました。   S.U


014
014 お店のシンボル〜キューピーの話〜 K.S さん
 「今回の仕上がりは如何でしょうか?」  「かわいいですね。」
 「良く出来ていますねぇ。」…この会話、お客様を笑顔でお出迎えする当店のシンボル… キューピーの話
 キューピーは幸せを呼ぶ!!そんな感じがして、お店に飾って5年が経ちました。
 初めは3体から始まり、ある時お客様から我が家に眠っている子達も飾って欲しいと、更に4体頂きました。そして、我が家のキューピーが日の目に出たのは3年前…。  偶然店の前を通りかかった《信毎》の記者がキューピーと孫を撮影して行ったのです。
 『掲載されるかはわかりませんが、気になってインターから戻って来ました。』と言葉を残し……。 そして2週間後、夕刊に載っているではありませんか ! ! ! ! !
 私はコンビニの夕刊を買い占めました。この夕刊掲載から明らかにキューピー模様替え意気込みが、家族全員を巻き込んで変わったのです。季節ごとに変えていただけの着せ替えが、月に一回、家族総出で衣装作りや背景制作をするようになりました。
 衣装は私の手作り(以外でしょう!)組み立て・背景作りは主人と娘婿、そして口出しだけの娘二人…。
 作成の日はまず前回の物を全部壊し、次に着替え、全体の構想を練りながら約5時間の作業。この時間だけは夫婦仲良く共同作業…(本当にこの時だけ…)「そこは違う!」「ここ持って!!」 あーだ、こーだと騒がしい中、「僕たちは関係ないねー!」と楽しく遊び回る孫二人。この時間は私にとって本当に幸せな時間です。主人や子供達はどう思っているのでしょう…。
 更にキューピーカレンダーを作り、お客様に大好評!!「楽しみにしているの!」「孫が待っているの!!」「もう一部欲しい!!」などの声を聞くと、更にやる気が出るものです。お客様が喜んでくれる、楽しんでくれる、癒されてくれる、そして自己満足…。
 家族それぞれが違う仕事、違う生活時間の中で月一回の家族の共同作業を大切にして生きたいと思います。
 今年で店を始めて25年…子供達の休みは仕事で寂しい思いをさせていたと思います。それでも、次女が美容師になってくれた事、本当にうれしく思います。…世代交代…まだまだ現役…親子仲良く商売繁盛!! !
 これからは娘を頼りにしつつ…しかし厳しく育てて行きたいと思う今日この頃です。


015
015 鈍感力 (どんかんりょく) Y.O さん
 いつ頃からか渡辺淳一の小説が何故か好きだった。舞台は北国。背景に暗い空、冷たい樹々、しっとりとした街並みがあり、ヒロインに一貫したスタイルがあった。理知的で美しいけれど華やかでなく、おとなしそうだがシンの強さを持つ。そして苦しい恋物語。そんな叙情詩の世界から医師的見方からか「女」とはという方向へどんどん深入りし、そこに不快感を覚えた私は、読むことをやめていた。
 ある日、人生を幸せに生き抜くために書いたという「鈍感力」という本について氏が語っているのを観、買い求めてみた。「鈍感力」を能力として備えた人もそうでない人も一読の価値があると思う。
良い意味で鈍感であること。それはその人本来の才能を育み、花咲かせる最大の力であると氏はいう。私も子供との関わりの中で強く思ったことに、挫折しても立ち直れる力のもとになるもの、叱られてもへこたれたりくさったりしないための能力、それを「鈍感力」と言うならば、私が子供に求めたのはこれだったと思う。うなずきながら一気に読了した内容をかいつまんで記したいと思う。
 血液がサラサラ流れることは健康の源であり、その血管は自律神経によってコントロールされているので、刺激の受け方が上手な人の血管はいつも開いていて、サラサラと血液は流れている。そんな状態の時は、副交感神経が支配していて、穏やかでリラックスしている時という。
 私たちがうけるストレス、これも「鈍感力」があれば、緊張感とか自信とかプラスのストレスへと変わる。おおらかに生きるためには、五感は鋭過ぎないことも大切である。また、人間が健康で愛を持ち仕事に専念できるためには、よく眠れる能力が必要であり、その睡眠力こそ「鈍感力」であると、氏は語る。 それでは「鈍感力」を養うために何をしたらよいのか。励ましやほめ言葉は素直に受け入れ、その中に自分をおく。つまり図に乗ってがんばってみれば良い。世界の中でも異常なほどきれい好きな日本人。しかしそれが抵抗力を弱め、小さな雑菌にさえ反応する体質を作っている。もっと鈍感になるべき。
 「鈍感力」の大切さはまだある。恋愛を成就する、幸せな結婚生活を続けるための忍耐とか許容を有する「鈍感力」。「癌」の原因として喫煙、有害化学物質、また遺伝説やウイルス説が論じられているが、心と体のバランスを保つ自立神経の変調も「癌」発生に関係があるとすれば、自律神経を安定した正常な状態で働かせておく、それにより全身に血液がサラサラ流れ、「癌」予防の大きな要素となる。
 男女の強さを比較した時、力強く、小さい女性の内面は男性より強靱にできている。女性は子を産み、人類を存続させる存在として、痛みや出血や寒さに耐えられる能力、「鈍感力」においては男性より優れている。母の愛は「鈍感力」そのものなのだ。と渡辺淳一は説いている。
 今は生きやすい時代とは言えない。けれども環境適応能力を持つ努力をし、何事も柔軟に前向きに考え、周囲に起きる不快感を飲み込み、無視しておおらかに生きる、そのもととなる「鈍感力」を持ち備えたいと思う。
 書店でこの本を買い求めた私に、役員仲間の 可愛いHちゃんの言葉。「ボスは十分あると思うよ!」これって喜ぶべきか、はたまた…。


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