「せっかくなので、半世紀」
HOME  │  プライバシーポリシー  │  お問い合わせフォーム  │  組合加盟お申込フォーム

 今回のコラム寄稿者は、MYGWMSHSさんです。
 皆さんこんにちは。元長野県知事ヤッシーに似ていると言われ続けているミッシーです。
 せっかくなので、このコラムに参加するにあたり、50年の人生を少しだけ振り返ってみることにしました。
 私が生まれたのは、昭和43年。松本市の駅から徒歩10分、花街で芸妓さんが往来する花柳界の真ん中、祖母が創業した美容室を父が継いだ店舗兼住宅でした。祖母との一番古い記憶は、パーマが終わった後のペーパー伸ばしのお手伝い(実は大嫌いでした)と、ロットやローラーをケースに戻す作業(こちらはパズルみたいで好きでした)ですかね。なにせ、生まれたのも育ったのも美容室、お店が中心で生活なんて後回し、私を含め皆の食事は住み込みのお姉さん美容師さんが作ってくれる、そんな感じでした。
 芸者さん達は、シャンプー&セット・結い上げ・髪のなでつけなど、毎日のように美容室に来られ、当時可愛かった私に(笑)お菓子をくれたりお小遣いをくれたりしていました。そりゃそうでしょう、綺麗になって帰られる芸妓さんに「お稼ぎ(かせぎ)なさい!(芸妓さんには「ありがとう」って言わないんです、「たくさん稼いできてくださいね!」って意味を込めて「お稼ぎなさい」って言ってました)」なんて2歳や3歳のかわいい男の子が言ったら、お小遣いの少しもあげたくなるもんです。そうやって、私の対人コミュニケーションスキルは上がってきたのでした(笑)
 美容室の3代目として生まれ育った私ですが、将来の夢は‘美容師’ではなく、ブレブレでした。当時、ヘアカットでたまった髪の毛を買いに来ていた(カツラメーカーの?)オジさんが使っているバネ秤を使ってみたくて、その仕事に憧れたり、小学生の間で流行った「まぁこのー」の田中角栄さんに憧れたり、でも基本的には何にでも興味を持って顔を突っ込みたがる性格だったので「天神(近所)の一心太助」になりたかったかな。(30代の方々にはわからないよね、調べてください)
 ご存じの方も多いかと思いますが、私の母は、(株)百日草様主催の千葉益子賞花嫁着付全国コンクールで賞を頂き、その実績を持ちまして、花嫁をはじめとする着付全般におきまして、今でも講師などをさせて頂いております。
 ただ、その賞を頂いた時期が悪かった。何度か挑戦をした母でしたが、最後に賞を頂いた年、私は受験生!高校受験の息子をほったらかして、しょっちゅう東京へ勉強に行き、私のお年玉まで巻き上げられました(笑) まぁ、誰のせいでもないですが、目標の高校に合格した瞬間から遊び始めた私です。文科系の部活に入ったのですが、先輩から「高校に入ったら、酒とタバコをやっていいんだぞ」って教わりましたので・・・。40歳過ぎにタバコはやめましたが、脳みそは未だにアルコール漬けになっています。
 東京で浪人をして大学に入学したのですが、バイトと遊びに一生懸命だった私は、何を思ったか通信科で美容学校にも入学し、就職活動もしたくなかったので、昔父がお世話になった老舗の美容室に転がり込みました。
 そのお店は、品川駅前にある有名なホテルの地下ショッピングモールにある美容室でした。ちなみに、隣にあった理容室は高倉健さんが常連で来られていて、私も何度かお手洗いでご一緒させて頂きました(笑) その美容室、老舗の有名な美容室で、私の父が師事した大先生は引退されておりましたが、私より一回り位年上のお嬢様姉妹が後を継がれ、場所がら港区高輪台とか白金台とかの常連のお客様が多かったのですが、そこでやってしまいました。3年目かな、お客様にもそこそこ入らせて頂くようになった頃ですが、先輩にお店の愚痴を言ったところ、そのままお嬢様社長の耳に入り、問い詰められ、ケンカして退社! してしまいました。
 愚痴の内容は「週に2回ほどしか顔を出さず、レジも一切触らないロンドン帰りのお嬢様社長で、この店の将来は大丈夫だろうか?」と。「経営者が従業員にこの店のビジョン(将来像)を語って見せなければ、従業員はやる気が出なくないですか?」と言ったことが原因。で、「余計なお世話だ」「あんたが考えることではない」と言われ、思わず「自分だってこの店でたくさん仕事していっぱい給料貰いたいから、店のことを考えているのに、経営者が顔も出さないって何なんですか!」って言い返してしまったことでした。いや、普段からお姉さんみたいな関係で、プライベートも含め話をしやすかったのですが・・・
 ちなみに、大きなホテルの中で2店舗営業していたのですが、大先生がなくなった後、某大手美容グループ「〇野」さんに経営を移譲してしまいました。自分がいた場所がなくなってしまうのは、寂しいですね。
 元々、両親が美容師で一人っ子だった私は、生活時間帯や休日が違う美容師になりたいとは思っていませんでした。(皆様すいません)どちらかというと、会社経営としての美容業を意識していたかなと思います。ただ、「業(なりわい)」としての美容業というものは強烈に意識していました。美容という業(なりわい)があるからご飯が食べられる、美容がなければ自分は生活できないということは、子供なりにわかっていたのでしょう。その気持ちは今でも持ち続けています。
 「美容という業・職種がなければ、私は育ってこられなかった。」
 だから、初めて組合青年部のお話を頂いた時も、支部での役員のお話を頂いた時も、基本的には「恩返し」のつもりで向かい合ってきました。組合員さん一人々がお金を出し合って支えてきた美容組合(=美容という業)のバトンを、志ある先輩方から受け継ぎ、発展させ志ある後輩に受け渡して行く事を意識し、何か迷うことがあったら原点に返って考え、意見を言ってきました。(だから、間違っていると思うと噛み付いちゃうんだよなぁ…)
 支部の役員6年、青年部の役員6年と、一区切りついたところで退かせて頂きましたが、この先もどの立場でいたとしても一組合員として意見は言わせて頂くつもりでおります。
 わかって頂ける方が一人でもいる限りは、遠慮しません。ですから、これからもウザイなどと思わずにお付き合いください。よろしくお願い致します。
サイト内検索
Google     WWW を検索   「BAながの」を検索 
Since2006 Copyright (C)  Beauty Shop Owners Association Nagano. All Rights Reserved.